映像のような情報は、鮮やかな映像と、その場を盛り上げる音響により、目と耳の両方を刺激して、頭を興奮状態にします。
それに対して、目で活字を追って、本を読むという行為は、頭の中で情報や、シナリオを組み立て、想像し、自分なりに着色します。映像を見るのと異なる点は、この想像することと、頭の中で組み立てることです。
映像は、想像する手間を省いて、目の前に想像すべき姿を用意してくれるのです。しかも、音響をつけて、あたかも目の前に現実の世界が広がっているような擬似体験をさせてくれるのです。
ある意味で本を読むということは、原作を読みながら、同時にその原作を元に、映像や音響を作成する演出側になるということでもあるのです。そのように考えることができたら、本を読む醍醐味や、頭を稼動させる意味ということが理解できるはずです。
ところが、本を読む人が少なくなっているように思えます。同じ本でもマンガは、活字と映像の間であり、文字を読むことで得られる想像力にはためになりません。
ところで、なぜ本を読むのは良いことなのでしょう。何のために本を読むのでしょうか。
小さな頃から私は父から「本を読め」と何度も言われて育ちました。私の父は、毎日欠かさず本を読んでおり、家にいる時は、いつも暇さえあれば本ばかり読んでいたのです。
小さな頃、私は正直言って、それほど本を読むことが好きではありませんでした。もっと言えば、マンガも読んだことがありません。それは、何が面白いのか、その内容についてではなく、読むという行為に対して楽しさや意味が判らなかったのです。
もう一つは、捻くれ者の私には、伝統的な日本文学の良さがさっぱり判らないどころか、なぜその本が有名で、優秀な作品であることに強い拒否感と、反発心があったようです。
例えば、日本人で最初のノーベル文学賞を受賞した川端康成の代表作『雪国』。
日本人の心情や、日本的な美観、情景や心情の描写が細かく、高く評価されている作品です。
しかし、当時の私には、私が考える、想像する情景や心情と、日本人らしさというのは、全く当てはまらず、この作品の何が良いのか全く理解できなかったのです。しかも、作品から得られる感動や、共感ということが全く無かったのです。
私が本を読むようになったきっかけは、太宰治の『人間失格』を読んでからです。
他人の前では面白おかしくおどけて見せている主人公が、本当の自分を誰にもさらけ出す事をしないというストーリーです。
何となく、私自身と照らし合わせることができるような気がしたのを今でも覚えています。そして、何よりも『人間失格』というタイトルは、不良少年だった私には、痛烈に心に響く言葉でした。
それから少しづつ本を読む機会が増えていきました。しかし、当時と、今とでは本を読む意味も内容も変わってきました。
さて、なぜ人は本をなぜ読むのでしょう。知識を得るためという人もいるでしょうし、想像することが楽しいという人もいるでしょう。どのような理由であれ、本を読むことは、人生において大きな支えにさえなることもあるほどの財産となるに違いありません。
私の場合には、頭の訓練に本を読んでいます。
だからその本は、宗教の本もあれば、鉄道の本もあれば、できるだけ様々なジャンルの本を読むように、意図的に心がけているのです。いわば、頭に少しばかりのビタミンを与えているともいえるかも知れません。
先日は、料理の本も買いました。そして、その時に一緒に買ったのは、卓球のサーブを研究する本です。全く、趣向も異なれば、内容も違います。
できるだけ多くのジャンルの様々な本を通じて、少しだけ頭を柔軟にしようとしているのです。その目的は、できるだけ二歩、三歩先まで考えられるような頭にしたいからなのです。
それに最も近いのが、将棋や囲碁のようなゲームです。彼らは、常に二手、三手先までを考え、できるだけ多くの複数の手を想定するようにしています。まさに、戦術を考えて、相手の出方にあわせて戦えるようにしているのです。
私が本を読むのは、これと同じようなことができるように、様々な場面を想像できるようにしているのです。
本を読むことで、頭の中で、擬似体験できます。想像力を高め、一度に複数のことや、次の展開まで読むことができるようになるのです。
中でも、次の展開を想像しながら読んで行き、その後の展開が、自分の想像と異なった時は、それを面白いと感じ、ためになったと思うのです。ですから、正直言うと、その本の内容よりも、構成や論じ方を楽しんでいると言ったほうが正しいかも知れません。
もちろん、折角読む以上は、何か役に立つようなものを選んでいるのも事実です。
卓球の本を買ったのは、一番下の娘が卓球クラブに入り、卓球を始めたのがきっかけです。どうせなら、娘に卓球のサーブでも教えられたらというのが動機です。単純なものです。
ついでに私の悪いところは、本を読むだけでは満足せず、それを実践したいと考えてしまうことです。
料理の本を買えば、直ぐにスーパーに行って、実際に料理をしてしまいます。どうやら、本で得た知識を、体を使って体験し、実践することで、頭の中の想像を現実化してみようと考えてしまうのです。
そのような私ですから、卓球の本を買ってから、本物の卓球台を買うに至るまではそれほど時間がかからないことは言うまでもありません。「どこの家に卓球台があるの」と家内から叱られるのも無理ありませんね。
少し断線しましたが、やはり本は読みましょう。新しい発見や、現実では体験できないことが、本の中で擬似体験できるということは、とても意味あることです。
それなのに、本を読まない人は、全く読もうとしません。何度も「本を読め」と言っても一度も本を読んでいる様子を見かけません。それはなぜなのでしょうか。
もしそれが経営者、または経営者を目指している人だとしたら、企業経営など諦めたほうが懸命だと思います。
それは知識が足りないというのではなく、人間としての厚みを増すきっかけを自ら放棄しているからです。
経営者なら、会社のために良いと思うことは、神頼みだろうが何だろうが、とにかく良いと言われることを取り入れようとするはずです。
私は、社長室に赤富士の絵を飾るようなことや、神棚を設けるようなことはしませんが、そのような気持ちになることは理解できます。
本を読むというのは、経営者という前に、人として最低限必要な頭のビタミンなのです。それを認められない、理解できないで本を読まないのは、経営者失格と言えるでしょう。
(次回に続く)
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