リーダーにとって、伝えることは重要なことではありますが、最も重要であり、注意しなければならないことは、どのように伝わったのかという結果のほうなのです。
リーダーにとって伝えることよりも、実は、どう伝わったのか、つまりどう受け取られたのか、受け取られてしまったのか、という結果のほうが遥かに大きいことなのです。
例えば、誤解を招く説明をしてしまったとしましょう。本人はそのつもりがないのに、違った形で伝わってしまうことです。通常このような時、誤解を招いてしまったことが悪いと反省し、誤解を解こうとすることでしょう。
しかし、実は、誤解を招いた説明の仕方に問題があったのではなく、誤解されてしまったという結果、その事実にこそ責任があるのです。つまり、伝え方ではなく、伝わったということに真実があるのです。
どんなに丁寧に説明をしても、一度に多くの人を集めて説明すれば、誤解を招いてしまうことはありえることでしょう。問題なのは、ある割合で、誤解をする人がいるという事実です。
その割合が多ければ多いほど、説明の仕方が悪かったというのではなく、誤解をして受け取られたということになるのです。伝え方が悪いのではなく、むしろ、隠れた本質が正しく伝わったとも言えるのです。実に皮肉なことです。
誤解を招いたのは、話の仕方ではなく、誤解を招くような考え方が根底にあり、そのような考え方や気持ちが自然に伝わったということなのです。伝わってしまったのは、そのような考えがあるから伝わったのです。
だから誤解ではなく、自然にそのように受け取られたということで、受け取った側のほうがむしろ正しいのです。これは、伝え方が悪いのではなく、実際に言葉にして言ったことでないほうの、隠れた本心のほうが、そのまま正しく伝わったとも言えるのです。
リーダーにとって、伝えることはとても重要なことですが、どのように受け取られてしまったのかということのほうが、遥かに重要なのです。
言いたいことが伝わらない、自分の思いが正しく伝わらないと悩むリーダーは多いことでしょう。
恐らく、このブログでも、私が伝えようとしていることと、異なって伝わっているかも知れません。しかし、それは、私が伝えたいことが伝わらないのではなく、私の別の面が、その人には正しく伝わったのでしょう。
私の別の面というのは、例えば、私を十分に知っている人が、「実際には、ここで書かれていることと、やっていることは違うではないか。良いことばかり言って」と私の至らない点を把握されているのでしょう。
そのことは、真摯に受け止めなくてならないと思います。
以前の私だったら、「勝手に誤解して受け取るほうが間違っている」と一方的な論理の持ち主だったかも知れません。
しかし、伝えることと、伝わることは全く違うということを体験し、意識するようになったのです。
私は、自分の息子も含めて、多くの知的障害者と出会うたびに、彼らに伝えることができないのではなく、こちらが思ったことと違って伝わってしまうことを体験するようになりました。
伝わらないのではなく、違って伝わってしまうのです。多くの場合、私のほうが彼らを理解していない、理解できていないことに起因しているのです。しかも、それは言葉の問題ではなく、気持ちや考え、行動の問題であるのです。
例えば、一緒に乗馬に参加した時のことでした。ある男の子が、馬に近づくことを嫌がっているのです。
私は始め、彼が馬を怖がっているのだと思いました。そのため、私は必死で、馬に慣れさせようと、馬の近くに連れて行き、馬の背を撫ぜさせるなどをしようと試みたのです。
しかし、嫌がって、全く近づこうとしません。私は、余程怖いのだろうとしか思えませんでした。しかし、彼を良く知る彼のお母さんは違いました。
男の子の傍に行くとすぐさま、馬から離れ、手を繋いで遠くのほうに歩いて行ってしまったのです。その時、私は、男の気分を転換するために、馬から遠ざけたのだと思いました。
しかし、そのことさえも私の想像は全く外れてしまっていたのです。その時点では、どれほどまでに私の考えが外れているか想像できませんでした。
しばらくすると、男の子はお母さんと手を繋いで、戻ってきました。
ニコニコとしています。先ほどの表情とは全く異なっていました。やはり、お母さんは、子供の気持ちを理解するのが上手だなと思いました。そこで、私はお母さんに尋ねました。
「今度は、馬に近づけますか?」と。
すると以外な回答がありました。
「勿論です。彼は馬好きですもの。」
私は、え、それならなぜ、私とは馬に近づかなかったのかと、疑心暗鬼になりました。
すると、お母さんは「ウンチがしたかったみたいです」とあっさりと答えました。
ここで初めて彼の気持ちが理解できたのです。ウンチがしたくてトイレに行きたいのに、誰だって、無理やりに馬の乗せられようとするのは嫌に決まっています。お尻を触られて持ち上げられようとすることを想像したら、耐えられないかも知れません。
そのことを全く気づくことができなかったのです。気づくことができなかったのは、馬に乗せることばかりを考えていたからです。それは相手本位ではなく、自分本位だったからなのでしょう。
そこには、言葉が通じるとか通じないとかは全く関係ありません。
男の子の気持ちや考えが読めなければ、何もできないし、何も伝えることもできないということを知ったのです。伝えようとする前に、理解しようという気持ちがなければ、伝わるはずなどないのです。
伝わらないばかりか、相手の気持ちや考えを知らなければ、違った形で伝わってしまうのです。馬に乗せて上げたいという気持ちが伝わらなかったのではなく、男の子には、トイレに行かせてくれない嫌な人だと伝わったのです。
このように伝えること、伝わらないこと、そして、どう伝わったかということはそれぞれ全く異なるのです。
この例は、障害者に対する例ですが、障害者だから伝わらないのではありません。障害者だから気持ちや考えが読めないのでもないのです。このようなことは、健常者においてはもっともっと日常的におきているはずです。
しかし、健常者と障害者との最大の違いは、その相手が、このブログを書いている私や、このブログを読んでいるあなたの側のほうがであり、気づく能力、感じる能力の問題なのだと思うのです。
(次回に続く)
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